「頑張ればできる」が子どもの才能を潰す。平等が招く教育の罠

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学校って面白かったですか?高校生で習った勉強は今役に立っていますか?

教師や親が言う「がんばればできる」という言葉を恐ろしく思ったことはありませんか?
今回の記事では平等が招く教育の罠について書いていきたいと思います。

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教育の平等ってなんなのだろう?

学校教育というのは中間層に合わせた教育が行われています。つまり、教師が教えることである程度学力が上がる子供に向けられた教育ということです。

しかしこの教育では中間層に向けてはいいのですが、下の層には合いません。
「頑張ればできる」という言葉は、「かつては自分もできなかったけど、がんばることでできるようになった」というニュアンスが込められています。
だから、できるようにならないのは努力が不足していると、判断しかねません。

勉強を頑張ればできるということは、勉強になる程度適正があるということなので、たぶんこの文章読んでいる人は頑張ってある程度勉強できた人たちだと思うので、「わからない!」と感じる人も多くいるはずですが、勉強をかんばってもできるようにならない人たちがいます

今の教育の制度では、「勉強ができないことは良くない」という思い込みにかられることになりますが、勉強ができないということが決して人間として劣っているということではありません。
しかし今の時代は必要以上に勉強ができることを重要視するのです。

また、実を言うと頑張ればできるは、中間層、下位層だけでなく、上位層にも影響を与えます。学校教育では、下の層の人たちをできるだけ、勉強ができるように、つまり平均的な学力まで引っ張ることを目的としています。だから、勉強ができる人たちは教師に十分に面倒みてもらうことができません。
「あの子は放っておいてもできる」「あの子は勉強できるから他の子を見てあげよう」
このように勉強ができる子たちは、言い方悪いですか、教師に放っておかれるるのです。

だから、できない子はまぁまぁできる中間層へ、中間層の子は中間層のまま、できる子は自分の能力を伸ばすことなく、退屈な学校教育に時間を浪費し、才能を伸ばすことなく皆が平均的になるまま学校を卒業することになります。

これは人的資源の無駄遣いとしか言いようがありません。

勉強することに適性のある優秀な学生には、どんどん難しい問題を与え、脳にたくさんの刺激を与えるべきです。
みんなが平等に教育を受けることができるという言葉はすばらしいのですが、できない子には努力が足りない、できる子には学校教育をつまらなくさせます。

勉強と言うひとつの物差しで能力を測るのではなく、たくさんの物差しで人間の能力を測ることができれば、勉強ができなくたって他のところで得意なところ、頑張れるところ、努力をつめるところを見つけることができます。

それと、できる子にとっては、飛び級制度導入してあげること、これが必要になります。
そもそも先進国で飛び級がないのは日本ぐらいなんです。
世の中には中学生で高校3年レベルの数学を解くことができる人もいます。そんな優秀な学生がなぜ大学受験の資格を得ることができる高校3年生まで、大学に進学できないのでしょうか。
少々社会科苦手でも古文漢文が不得意でも、早めに大学の数学科に進学させることは、その学生にとっても日本にとっても良いことなのではないでしょうか。

優秀な進学校では東京大学の理科三類(医者になるコース)に進学しないと、周りから優秀ではないとみなされるので、特に医者になりたいをけでもないのにとりあえず理三に進学しようとする流れがあります。
勉強ができるからといって患者さんの命に関わる仕事をする適正がある訳ではありません。

それよりは、自分がなりたいと思う職業につくことが大切です。
自分の優秀さをアピールするために最難関の東京大学の理科三類を目指すなんてちょっと勿体無いですよね。
そんなことで優秀さをアピールするのは時間の無駄なので、高校1年生から東京大学に受験できるようにしたり、高校2年生から一流の大学に受験できるような制度、つまり飛び級を早く導入するべきだと私は思います。

みんなが平等に勉強ができ、学年を一つずつ進めるということは良いことのように思えますが、それはある程度できる子にとってのことであって、できない子や、できすぎる子にとってはひどく窮屈で、面白くないし退屈なものに他なりません。

学生全員が大学に行く必要なんてないのですから、勉強できる子はどんどん早く大学に進学して、勉強ができない子は勉強以外のところで勝負できるような、手に職をつけることができるような、そんな教育が必要です。

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