子どもごと「自主隔離」する子育て。「私だけが守れる」の危うさ

母親と子どもを囲う透明な壁の外に学校や友だちが見える対比構図のイラスト 教育・子育て
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「お母さんは、いつでもあなたの味方だよ」

「あなたの味方は、お母さんしかいない」

似ているようで、この二つの言葉には決定的な違いがあります。前者は、子どもにほかの味方ができても成り立ちます。しかし後者は、親以外の誰かを信頼する可能性を初めから閉ざしてしまいます。

もちろん、一度口にしただけで親子関係のすべてが決まるわけではありません。傷ついた我が子を励ましたくて、思わず強い言葉を使ってしまうこともあるでしょう。

問題になるのは、その言葉が日々の関わり方の基準になってしまうことです。

「先生の言うことは信用できない」「祖父母には任せられない」「あの家庭とは付き合わない方がいい」「この子のことを本当に分かっているのは私だけ」。

一つひとつの判断には、もっともな理由があるかもしれません。けれど、親と違う考えや関わり方を遠ざけ続けた結果、子どもの世界に親の価値観しか残らなくなったらどうでしょうか。

親が自分だけでなく、子どもまでも外の人間関係や価値観から遠ざけていく。私はそれを、「子どもごとの自主隔離」と呼んで考えてみたいと思います。

これは医学的な診断名でも、学術用語でもありません。また、危険から避難している親子や、頼れる人がいなくて孤立している家庭を責める言葉でもありません。考えたいのは、「子どもを守る」という判断の中に、親自身の不信感や都合が入り込み、子どもにとって大切な関係まで閉じてしまっていないか、という問題です。

親の「付き合わない」に、子どもまで含めていいのか

遊びたい子ども同士の間で母親が距離を取らせようとしている場面のイラスト

たとえば、ある母親が、子どもの友達の親を苦手に感じているとします。

話が合わない、言い方がきつい、会うたびに疲れてしまう。そうした相手と、無理をして親しく付き合う必要はありません。

ただ、子ども同士は仲がよく、本人はこれからも遊びたいと思っていたらどうでしょうか。

「私はあの人と距離を置きたい」から、「あなたもあの家の子とは遊ばないで」へ進むとき、親自身の人間関係についての判断が、子どもの人間関係についての決定に変わっています。

ここは、分けて考える必要があると思います。

親同士の付き合いは減らしても、学校での子ども同士の関係までは否定しない。家庭を行き来するのは難しくても、別の会い方を考える。状況によっては、親と子の付き合いを切り分けられる余地もあるはずです。

もちろん、相手に具体的な危険があれば話は別です。また、送迎や費用の都合から、子どもの希望をすべて叶えられるわけでもありません。

それでも、「親が嫌だから」と「子どもにとって危険だから」は、本来まったく別の理由です。

そして、ここに「自主隔離」という言葉の引っかかりがあります。

自分の意思で関係から離れたのは親であって、子どもではありません。親子を一つの単位として扱ってしまうと、親が選んだ撤退に、子どもも同意しているように見えてしまいます。

「私たちは、もうあの人たちとは関わらない」

その「私たち」という言葉の中に、子ども自身の気持ちはきちんと入っているでしょうか。

「この子をよく知っている」と「私以外には任せられない」は違う

家では静かな子どもと外では生き生きする同じ子どもを対比したイラスト

親は、子どものことをとてもよく知っています。

何が苦手で、どんなときに疲れやすく、どんな言葉に傷つきやすいのか。外では平気な顔をしていても、家に帰るとぐったりしてしまうこと。日々の暮らしを共にしているからこそ分かる姿があります。

その理解を軽視して、周囲が「気にしすぎだ」「もっと外に出せばいい」と簡単に言うのも乱暴な話です。

ただ、子どもをよく知っていることと、親の理解だけで十分なことは別です。

家では無口な子が、友達の前では驚くほど生き生きと話しているかもしれません。親には見せない粘り強さを、先生が知っているかもしれません。家庭では伝わらなかった興味を、習い事の指導者が理解してくれることもあるでしょう。

そうした姿を知ったとき、「私の知らない一面もあるんだな」と受け止められるのか。それとも、「そんなはずはない。私の方が分かっている」と退けてしまうのか。

周囲の人の見方は、親の理解を否定するものではなく、子どもへの理解を広げる材料にもなるはずです。

これに関連する研究に、「母親のゲートキーピング」という概念があります。主に、母親が父親の育児への関与を促したり、抑えたりする行動を扱うものです。

2020年の日本の研究では、幼稚園や保育園に通う子どもを持つ母親313人を対象に調査が行われました。その結果、「抑制」が強いほど、母親が回答した父親の育児への関心や子どもとの遊び・世話などが低い傾向がみられました。ただし、母親側の回答による横断調査なので、父親の育児参加が少ない原因を母親のゲートキーピングに求めることはできません。

また、この概念をそのまま先生や友人との関係にまで広げることはできません。それでも、「ほかの人が子育てに関われる条件を、何にしているのか」という問いを考える手がかりになります。

子どもの安全に関わることや、子どもの話を聞くことなど、譲れない条件はもちろん必要でしょう。

しかし、「私と同じように接すること」「私の考えを否定しないこと」が絶対条件になっていたら、周囲の人は親のやり方を再現する役しかできなくなります。

「私だけがこの子を育てられる」と考えて、周囲の人が関わる機会をなくしてしまえば、結果として自分しか関わらない状態になります。でも、それはほかの人には育てられないことの証明ではありません。別の関係が育つ余地を、最初から与えていなかっただけかもしれないのです。

「私への異論」を「私たちへの攻撃」にしない

面談で説明を受ける母親と子どもの受け止め方の違いを表したイラスト

先生から、「学校では、こういう様子が見られます」と伝えられたとします。

それを自分の知らない子どもの姿についての情報として受け取ることもできれば、「私の育て方が悪いと言いたいのか」「この子を否定しているのか」と感じることもあるでしょう。

実際に、伝え方が無神経だったり、偏見が含まれていたりする場合もあります。ですから、忠告する側がいつも正しいわけではありません。

ただ、親が嫌な気持ちになったことと、相手が子どもにとって有害であることは、別々に確かめる必要があります。

「私は、あの言い方が嫌だった」

それは親自身の気持ちです。しかし、親への異論を「私たち親子への攻撃」として受け止めてしまい、「だから、あなたもあの先生を信じなくていい」と結論づける前には、子ども本人がどう感じているかを聞く必要があります。

親子の心理的な境界についても研究があります。2024年に発表された複数の研究をまとめた分析では、心理的なコントロールや過度な介入によって親子の境界が曖昧になる関係ほど、子どもの心理面や行動面の問題と関連する傾向が報告されています。

ここから考えたいのは、親子が親密であること自体よりも、親密なままでお互いに「違う気持ちを持てるかどうか」です。

母親はその先生が苦手でも、子どもは信頼しているかもしれません。逆に、母親が良い人だと思っていても、子どもは傷つけられているかもしれません。

「お母さんはこう感じたけれど、あなたはどうだった?」

そう尋ねることは、親の判断を捨てることではありません。判断材料の中に、子ども自身の経験も加えるということです。

親を大切にするために、親の嫌いな人まで一緒に嫌わなければならない。そんな関係を子どもに強いる必要はないはずです。

学校に通っていても、世界は閉じられる

学校から持ち帰った考えを親が選別している様子を描いたイラスト

「子どもごと自主隔離」と聞くと、親子で家に閉じこもっている姿を想像するかもしれません。しかし、今回考えているのは、外出の多さではありません。

学校にも習い事にも通い、いろいろな人と会っていても、そこで得た経験が親の考えと合わないたびに否定されるなら、別の見方に触れる余地は狭いままです。

たとえば、子どもが「先生はこう言っていたよ」と話すと、「あの先生は何も分かっていない」と返す。友達との関わりから新しい考えを持つと、「変なことを吹き込まれた」と扱う。親と違う意見を言えば、「誰にそんなことを言われたの」と、その考えを持たせた相手を探し始める。

もちろん、内容がおかしければ一緒に話し合えばよいですし、親が反対意見を伝えることも必要です。

問題なのは、内容を検討する前に、「親と違うことを言う人だから」という理由だけで相手ごと退けてしまうことです。

それでは、子ども自身が考えて意見を変えた可能性まで失われてしまいます。親と同じことを言えば自分の意見として歓迎され、違うことを言うと他人の悪影響にされてしまう。その環境では、親と違う考えを持つ道が初めから塞がれてしまいます。

私は、教育には「親から聞いた説明を、親以外の経験によって確かめ直せること」も含まれると思っています。

親が苦手だと言っていたけれど、話してみたら少し違った。親の言うことにも一理あるけれど、先生の説明にも納得できるところがある。そうして、どちらかの言葉を丸ごと信じるのではなく、自分なりの理解を作っていくのです。

これは、親を疑う子どもを育てたいという話ではありません。親も含めて、一人の人の説明だけでは世界のすべてを説明できない、という自然な事実を学ぶ話です。

子どもに考える力を持ってほしいなら、考えた結果が親の説明を修正するものであっても、受け止める余地が必要なのではないでしょうか。

親に相談できないとき、相談先がゼロにならないか

子どもが母親以外の大人にも安心して相談できる場面を描いたイラスト

子どもにとって親以外の大人と関わる意味は、単に面倒を見てもらうことだけではありません。

親には言いにくい悩みを相談できる。家庭では言えない本音を話せる。親とは違う角度から、自分を見てもらえる。

たとえば、家では「落ち着きがない」と言われていた子が、別の場所では「よく周りに気がつく」と受け止められるかもしれません。親が気に留めていなかった得意なことを、先生が見つけてくれることもあります。

その人が親より正しいとは限りませんが、子どもを理解するための見方が一つ増えます。

親以外の大人との支援的な関係についても研究があります。2018年に発表された複数の研究をまとめた分析では、そうした大人の存在と、若者の学業や社会性、感情面などの良好な状態との間に、小さいながら正の関連が報告されています。ただし、もともと良好な状態にある若者ほど、支援的な大人との関係を築きやすい可能性もあるため、因果関係まで示したものではありません。

そのうえで、日常の子育てに引き寄せて考えるなら、私は「親に言いにくいとき、相談先がゼロにならないか」という点を大切にしたいです。

親のことで悩んでいるときに、親にしか相談できない。それでは、子どもの逃げ場がなくなってしまいます。

「お母さんには言いにくかったから、先生に話した」

そう聞けば、親としては寂しさや戸惑いを感じるかもしれません。それでも、別の大人を頼ったことまで責めてしまえば、子どもは次に困ったとき、誰にも相談できなくなってしまいます。

「私には話しにくかったんだね。話せる人がいてよかった」

すぐにそう言えなくても、親以外に助けを求めたことを、裏切りとして扱わない。それは大事なことだと思います。

もちろん、相手が安全に関わっているかを確かめることと、子どもの相談内容を何でも親が聞き出すことは別です。年齢や状況に応じた見守りは続けながらも、子どもが親とは別の関係を持つ余地は残せます。

子どもの周りに知り合いを大量に増やす必要はありません。本人が困ったときに、話を聞いてくれる人がいる。その関係を、親が独占しないことが大切なのだと思います。

危険から離れることと、ほかの行き先までなくすことは違う

危険な場所から離れつつ別の安心できる居場所へ向かう親子のイラスト

ここまでの話は、いじめのある学校に通い続けさせたり、傷つけてくる大人との付き合いを我慢させたりするためのものではありません。

危険な関係からは離れてよいですし、疲れきっているなら、次の場所を探す前に家で休む時間も必要です。不登校であることや、家で過ごす時間が長いことだけで、親が子どもの世界を閉じているとは判断できません。

では、守るための判断と、必要以上に世界を閉ざしてしまう判断を、どう分ければよいのでしょうか。

私なら、まず「何を避けようとしているのか」を具体的にします。相手が何を言い、何をしたのか。どのような危険があるのか。親自身の不快感なのか、子どもへの実害なのか。それらを一つにせず、分けて整理してみることです。差し迫った危険があるときに証拠集めを待つ必要はありませんが、落ち着いた段階で理由を整理してみます。

次に、本人の話を聞きます。子どもが好きだと言っている相手でも安全とは限りませんが、本人の希望や不安を聞かずに大人の都合だけで決めてよいはずもありません。

そして、制限する範囲を確かめます。特定の先生に問題があることと、「先生は誰も信用できない」は違います。一人の友達とのトラブルを、「友達なんていなくてもいい」にまで広げる必要もありません。

最後に、状況に応じて判断を変えられる余地を残します。危険だった相手と無理にやり直す必要はありませんが、「あの場所では安心できなかったけれど、別の場所や人との関係は考えられる」と、外の世界への可能性を残しておくことです。

一つの関係から離れることと、それ以外の関係を持つ可能性までなくしてしまうことは違います。「あの場所はだめだったけれど、世界のすべてが敵なわけではない」と考えられる心の余裕を、親子の間に残しておきたいのです。

親子の世界を開くことを、母親一人の宿題にしない

ここで、「母親が他人を信用して手を離せば解決する」とまとめてしまうのも違います。

こども家庭庁も、核家族化や地域のつながりの希薄化などによって、親族や友人から支援を受けにくく、孤立感や不安感を抱えながら子育てをしている現状があると説明しています。

助けを求めても断られた。相談したら責められた。頼めそうなサービスがあっても、費用や時間の都合で使えない。そんな背景を無視して「自分から閉じている」と責めれば、問題を見誤ります。

問いたいのは、何人で暮らしているかではなく、子どもが家族の外側に関係を持てるかどうかです。この記事では母親を中心に例を挙げましたが、父親や祖父母が同じように外との関係を閉ざしてしまう場合も、同じ問いを向ける必要があります。

そして、周囲の側にも問われることがあります。

「もっと人に頼りなよ」と言うだけで実際には何も引き受けなかったり、「母親が抱え込んでいる」と批判しながら問題が起きればすべて母親の責任にしたりする。その状態で、安心して外に委ねるのは難しいでしょう。

親の判断を尊重しつつ、必要な負担を分け合い、子ども自身の声にも耳を傾ける。そういう相手がいて初めて、「自分一人で抱え込まなくても大丈夫だ」と思える余地が生まれるのだと思います。

親子の世界を開いていくことまで、母親一人の新しい宿題にしてはいけません。

教育は、親の知らない世界が増えていくのを支えること

母親に見守られながら子どもが外の世界へ歩き出す様子のイラスト

教育とは、親が知っている小さな世界の中で子どもを完成させることではないと思います。

親が詳しくない分野に興味を持つ。親とは違う生き方をする人に出会う。親の説明だけでは分からなかったことを、自分の経験を通して納得していく。そうして、親の手の届かない広い世界へ踏み出していくのを支える営みではないでしょうか。

その過程では、親の知らない子どもの姿も増えていくはずです。

それを、子どもが自分から離れてしまった寂しい証拠としてではなく、自分以外にも関われる豊かな世界ができたこととして受け止めたいのです。

目指したいのは、誰にも頼らず一人で生きる人間にすることではありません。親に頼れないときにも、ほかの人に相談し、必要な助けを求めながら生きていける力を育てることです。

冒頭の二つの言葉に戻ります。

「お母さんは、いつでもあなたの味方だよ」

「あなたの味方は、お母さんしかいない」

守るべきなのは、親が唯一の理解者であり続ける立場ではなく、子どもが安心して広い世界へ出ていける可能性の方です。

親が安心して戻れる場所であることと、親のもとにしか居場所がないことは違います。

「あなたの味方は、お母さんしかいない」ではなく、「お母さんも、あなたの味方だよ」。

その「も」という一文字の中に、子どもがこれから出会うたくさんの人たちのための場所を、大切に残しておきたいと思います。

*関連記事
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→「子どものため」が支配に変わるとき|親の正しさが暴走しないために
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参考資料

金子 楓・濱口 佳和(2020) 「母親のゲートキーピング尺度日本語版の作成と信頼性・妥当性の検討」 教育心理学研究、68巻4号、339-350頁。
https://doi.org/10.5926/jjep.68.339

Thompson, M. J., Platts, C. R., & Davies, P. T.(2024) Parent-child boundary
dissolution and children’s psychological difficulties: A meta-analytic review.
Psychological Bulletin, 150(7), 873-919. ※本記事では、PubMedに掲載された著者要旨を参照。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/38884957/

Van Dam, L., et al.(2018) Does Natural Mentoring Matter? A Multilevel
Meta-analysis on the Association Between Natural Mentoring and Youth Outcomes.
American Journal of Community Psychology, 62(1-2), 203-220.
https://doi.org/10.1002/ajcp.12248

こども家庭庁 「家庭支援事業について」 https://www.cfa.go.jp/policies/katei_shien

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