「独身男性、40を過ぎると狂う説」という、かなり乱暴だけれど妙に気になる言い回しがあります。最近、子育てについて考えていて、私にも似たような仮説が浮かびました。
「核家族の母親、子どもが小4を過ぎると狂う説」です。
先に断っておくと、もちろん精神医学的な意味で「狂う」わけではありません。母親一般を批判したいわけでも、小学4年生になった瞬間に何かが急変するという話でもありません。
私が言いたいのは、子どもが10歳前後になったころから、それまで穏やかだった親が急に過干渉になったり、勉強や友達関係に細かく口を出して「昔は素直だったのに」と嘆き始めたりする現象についてです。そしてこれは、単純に親の性格の問題というより、子育てというゲームのルールそのものが途中で変わるからではないか、と考えるようになりました。
私はこのブログで2017年に「母親の過干渉が生み出す自主性のない子供たち」という記事を書きました。そこでは、親が先回りし続けると子どもの選択肢を奪ってしまうこと、成長に合わせて決定権を広げる必要があることを論じました。その考え自体は今も変わっていません。
でも当時は、一つ大切な問いを見落としていました。そもそもなぜ親は、子どもが成長しているのに決定権を手放せなくなるのでしょうか。今回はそこを掘り下げてみます。
小4は魔法の境界ではない。でも「潮目」と感じるのには理由がある

まず「小4」という年齢について整理しておきます。小学4年生になったら親子関係が変わるという、医学的・心理学的に明確な境界があるわけではありません。発達には大きな個人差があり、早くから自立心が芽生える子もいれば、ゆっくり変化していく子もいます。
ただ、「10歳前後から何かが変わる」という感覚そのものは、それほど的外れでもありません。こども家庭庁が掲載している子どもの発達に関する資料では、学童期中期ごろから論理的に考える力が身につき、親の課題や限界についても言葉にできるようになるため、親子関係が変化していくことを親側も理解する必要があるとされています。また文部科学省の資料でも、子どもが親の言うことを聞かなくなるのは自立や親離れの始まりであり、むやみに抑え込まず会話を続けながら見守ることが勧められています。
10歳前後は、突然子どもが別人になる節目ではありません。それでも、それまで親の方を向いていた子どもの重心が、友達や自分自身の価値観へと少しずつ移り始め、親子関係の質が変化していくという感覚には、一定の発達上の背景があるといえます。ここで、親子関係のゲームチェンジが静かに始まります。
子育ては「お世話」中心から「他者との対話」へ変わっていく

ここからは、あえて乱暴な比喩を使います。私は以前から、「ペットは育てられても、人間を育てられる人は意外と少ないのではないか」と考えています。
もちろん、子どもを犬や猫と同一視しているわけではありません。子どもは生まれた瞬間から一人の人間です。ただ、乳幼児期の子育てには、ペットのお世話と構造的に重なる部分があります。食べさせ、寝かせ、清潔にし、危険から守り、生活リズムを整える。つまり、保護と管理の比重が非常に大きいのです。
もちろん乳幼児の育児は過酷です。夜泣きや病気、仕事との両立など、身体的な負担は計り知れません。ただ、関係性のルール自体は比較的シンプルです。親のほうが圧倒的に多くのことを知っており、親が判断し、親が守り、子どもはその枠組みの中で生活します。
しかし、子どもが成長するにつれて、このやり方だけでは通用しなくなっていきます。
「なんで?」 「お母さんはそう言うけど、僕は違うと思う」 「それ、お父さんだってやってるじゃない」 「僕の友達のことなんだから、口を出さないでよ」
犬や猫とは違い、子どもは成長すると親の矛盾に気づき、ときには親より詳しいことや正しいことを言い、親の知らない世界を持ち始める。子どもは最初から人間だったのですが、ここから、子どもは「自分とは異なる意思を持った、ひとりの他者」として、親の前でますます輪郭を強めていきます。
この段階から必要になるのは、適切にお世話をする能力だけではありません。自分とは違う人間と、どのように関係を築いていけるかという能力が問われ始めます。
「どう育てるか」から「どう付き合うか」へ
子どもが小さいうちは、「この子をどう育てるか」という問いで多くのことを考えられます。何を食べさせ、どんな習い事をさせ、何時に寝かせるか。生活の大部分を親が設計できるからです。
しかし成長するにつれて、問いそのものが変わっていきます。「自分とは違うこの人と、どう付き合うか」になっていくのです。
親が苦手だと感じる友達を、子どもは好きになるかもしれません。親が意味を感じない趣味に熱中したり、親が望む進路を拒否したりすることもあります。そして、親の思い描いていた理想とはまったく違う人間になっていくかもしれない。
ここで親に求められるのは、自分と異なる価値観を認めることです。致命的な危険がない限り、子どもが間違っているように見えてもある程度は自分で選ばせ、失敗も経験させる。親が正解を与えるのではなく、一緒に考える。そして何より、親と違う結論を子どもが出しても、それを受け入れる姿勢が試されます。
これは、食事を作ったり学校へ送り出したりする日常の世話とは、まったく質の異なる営みです。だからこそ、子育ての前半戦が非常に上手だった人が、後半戦でも同じようにうまくいくとは限りません。競技のルールそのものが変わってしまうからです。
幼児期に優秀だった「先回り」が、後半には「過干渉」になる

さらに厄介なのは、子どもが幼いころには長所だった親の能力が、そのまま続けると短所に裏返ってしまうことです。
幼児を育てるとき、先回りできる親は間違いなく有能です。雨が降りそうだから傘を持たせる。体調が悪そうだから早めに休ませる。忘れ物をしないよう確認し、危ないことをしそうなら制止する。「困る前に気づいて、困らないようにしておく」ことは、幼い命を守り育てるうえで不可欠なスキルでした。
問題は、子どもが成長しても同じ関わり方を続けてしまうことです。
本人が翌日の準備をできる年齢になっても親がすべて点検する。友達とのトラブルを本人が乗り越えようとしているのに、親が先回りして学校に連絡する。本人が進路を考えられる段階なのに、親が適性を決めつけてしまう。
親からすれば、昨日までやってきた「親切」や「愛情」をそのまま続けているだけのつもりです。しかし子ども側から見ると、それは「自分でできるのに信用されていない」というメッセージに変わってしまいます。昨日まで親切だった関わりが、子どもの成長とともに過干渉として受け取られることがあるのです。
核家族が抱える「趣味=子育て」の罠

ここからが、今回いちばん考えたかった部分です。核家族で子育てをしていると、本人にそのつもりがなくても、いつの間にか「趣味=子育て」のような状態になっている人が少なくないのではないかと思います。
朝起きて子どもの準備をし、学校の予定を把握し、食事を作り、習い事の送迎や宿題のサポートをする。子どもが何かできるようになれば嬉しく、成績が上がれば誇らしく、先生に褒められれば安心する。そうして10年近く走り続けるうちに、仕事も趣味も人間関係も達成感も、すべて子ども経由になっている状態です。
これは、子育てに熱心であることが悪いという話ではありません。生活の中心が子育てであっても子どもの意思を尊重できる人はいますし、仕事や趣味を持っていても過干渉になる人はいます。
ただ、親としての自分以外の自分が、ほとんどなくなってしまったときに葛藤が生じやすくなるのではないか、という点です。
1歳6か月児の母親を対象にした国内研究では、「母親としての役割への満足」だけでなく、「母親以外の自分の役割への満足」も母親の不安と関連し、後者の関連のほうが大きかったと報告されています。もちろん、これは乳幼児の母親を対象にした横断研究であり、「母親以外の自分を失うと過干渉になる」という因果関係を示したものではありません。それでも、「母親以外の自分」を保つことが心理的に重要らしいという点は、今回の仮説を考えるうえで示唆に富む材料です。
子育ての逆説:成功するほど親の出番は減っていく
子育ては、きわめて特殊な仕事です。一般的な仕事であれば、うまくできるようになるほど重要な役割を任されたり、業務の範囲が広がったりします。
しかし、子育ては逆です。うまくいけばいくほど、親が直接関与する場面は減っていきます。
生まれたばかりのころはすべてを世話し、成長するにつれて自分でできることを増やしていく。つまり子育てとは、長い時間をかけて、親が持っていた決定権を子ども本人へと返していく仕事でもあります。
ここでのゴールは、「親が完全に不要になること」ではありません。大人になっても家族に助けを求めることはありますし、継続的な支援を必要とする人もいます。大切なのは、必要な支援を受けながらも、本人が自分の人生の主体になっていくことです。
ただ、そこには親にとって残酷な側面があります。子育てが順調に進めば進むほど、「もう自分でできるよ」と言われる回数が増えていく。親が何年もかけて一生懸命に取り組んできた成果が、「自分の出番が減ること」として返ってくるからです。
子どもの自立は、親にとって「喪失」でもある

子どもにとって自分でできることが増えるのは前進ですが、子育てに人生の多くを注いできた親にとっては、自立は成長であると同時に「喪失」の側面を持ちます。
相談されずに決めることが増え、親より友達の意見を大切にし、知らない世界へと踏み出していく。頭では喜ばしいと分かっていても、ふとした瞬間に寂しさを覚えるのは自然な感情です。
ただ、その寂しさは必ずしも素直な形で表に出るとは限りません。
「まだこの子には判断力がない」 「放っておいたら取り返しのつかない失敗をする」 「あの友達と一緒にいるのは良くない」 「もっと勉強させないと将来困る」
こうした、もっともらしい心配の言葉に姿を変えて噴き出すことがあります。
もちろん、すべての心配が親の寂しさから来ているわけではありません。現実の危険から守るためであったり、健康や進路、経済的な制約など、親が判断や介入をすべき合理的な場面は確実に存在します。だからこそ、他人の家庭を見て「あの親は子どもに依存している」と外から断定することはできません。
ただ、自分自身が子どもに対して強い口出しをしたくなったとき、少し立ち止まって「自分はいま、何を怖がっているのだろう」と点検してみる価値はあります。本当に子どもの身に危険が迫っているのか。それとも、子どもから必要とされなくなる自分を恐れているのか。無意識のうちに、子どもを必要としているのではなく、「子どもから必要とされる自分」を失うことに怯えていないか、ということです。
なぜ「核家族の母親」に起きやすいのか
ここまで母親という言葉を使ってきましたが、これは女性特有の性質によるものではありません。父親でも祖父母でも、子どもの人生と自分を強く重ね合わせれば同じことが起こり得ます。
それでも「核家族の母親」を取り上げるのは、日本において乳幼児期のケアが母親に偏りやすい社会構造があるためです。2021年の社会生活基本調査を基にした政府資料では、6歳未満の子どもがいる共働き夫婦において、家事関連時間の77.4%を妻が担っていました。
この数字は「母親が過干渉になりやすい」という証拠ではありません。ただ、子どもが小さいころから、育児という重い役割の中心に母親が一人で置かれやすい構造を示しています。その状態が長く続けば、人生の中で「母親」という役割が巨大化してしまう人がいても不思議ではありません。
さらに核家族化や地域のつながりの希薄化によって、親子関係を外から相対化してくれる人との接点も持ちにくくなる場合があります。「それくらい本人に任せてみたら?」「失敗しても大丈夫じゃない?」と、別の角度から視線を入れてくれる人が身近にいないと、母と子の関係性が閉じたまま濃密になりすぎてしまうのです。
過干渉かどうかは「世話の量」ではなく「決定権の所在」で見る

ここで区別しておきたいのは、手をかけて育てることと、過干渉は別物だということです。
毎日食事を作り、送迎をし、学習をサポートしていても、子どもの意思を尊重できる親はいます。逆に、普段の世話は少なくても、進路や人間関係などの要所で「この学校以外は許さない」と子どもの選択を奪ってしまうなら、それは支配的といえます。
過干渉かどうかを考えるうえでの一つの補助線は、世話の量ではなく「最終的な決定権がどこにあるか」を見ることです。
もちろん、健康や安全、金銭、家族全体のルールなど、内容によって親の関与が必要な程度は異なります。しかし基本的には、子どもの成長に合わせて、「親が決める」から「一緒に決める」へ。さらに「本人が決めて親が助言する」へ進み、最後は「本人が決める」へ。このように、決定権の重心を少しずつ子ども側へ移していくグラデーションが大切になります。子育ての後半戦で問われるのは、この権限を少しずつ手放していくプロセスなのかもしれません。
「昔は素直だったのに」は、自立に向かっている表れかもしれない
子どもが大きくなると、親はつい「昔は素直だったのに」と口にしてしまいがちです。しかし考えてみれば、中高生になっても幼少期と同じように「お母さんの言う通りにする」と何でも従っていたとしたら、そのほうが心配です。
「嫌だ」 「僕はそう思わない」 「自分で決める」
そうやって親の矛盾を指摘し、自分なりの価値観を持ち始めるのは、親子関係が壊れた証拠ではありません。むしろ、一人の人間として自立に向かっていることの表れでもあります。子どもがおかしくなったのではなく、親の言うことを従順に聞くことが成長の基準ではなくなっただけなのです。
親もまた、自分の世界へ帰っていく
では、子育てが生活のすべてになっていた親は、自分の趣味を見つければ解決するのでしょうか。話はそう単純ではありません。
日々の家事や連絡、送迎やサポートを一手に引き受けている人に「自分の世界を持とう」と促しても、現実にはそんな時間も気力もない場合が多いはずです。親が自分自身の時間を取り戻すためには、まず子育ての負担を一人に集中させない環境づくりが必要です。夫婦での分担や外部の支援、周囲の手を借りること、そして子ども自身にできることは少しずつ任せていくことが欠かせません。
そうして生まれた時間を、無理に立派な仕事や趣味に充てる必要もありません。一人で静かにコーヒーを飲む、本を読む、散歩をする、ぼーっと過ごす。何であれ大切なのは、「子どもがどうであるか」とは切り離された、自分自身のためだけの時間が存在することです。
子どもが自分の世界を作り始めたら、親もまた自分の世界へ戻っていく。それは子どもを見放すことではなく、子どもの人生を子ども自身へ返すために必要な準備なのだと思います。
思い通りにならない人間を、そのまま愛せるか
最初の話に戻ります。私は以前から、「ペットは育てられても、人間を育てられる人は意外と少ないのではないか」と考えてきました。乱暴な言い回しですが、言いたいのは小さい子の世話が簡単だということではありません。
お世話をする能力と、一人の人間を育てる能力は別物だということです。
十分な食事を与え、環境を整え、学習を支える。それだけでは、人間を育てたことにはなりません。子どもが自分とは違うことを考え、違うものを好きになり、親の想像もしなかった道を選び、ときには親を批判しながら、思い通りにならない存在へと育っていく。その姿を受け入れられるかどうかが、子育ての後半で問われます。
そう考えると、「小4を過ぎると親が狂う」という現象は、少し見え方が変わってきます。親自身がおかしくなったというより、子育てのルールが大きく変わったにもかかわらず、それまでのやり方を誠実に続けてしまう。そのズレが、過干渉や衝突という形で表面化しているのではないでしょうか。
ルールはとっくに変わっていたのに、親にはそのアップデート通知が届いていなかった。そう表現したほうが近いのかもしれません。
子育ての前半で必要だったのは、守る力でした。 中盤で必要だったのは、教える力でした。 そして後半で試されるのは、少しずつ手放す力です。
子どもが成長するにつれて試されるのは、子どもの出来不出来ではなく、親自身のあり方です。
自分の思い通りにならない一人の人間を、そのまま一人の人間として愛せるか。
それこそが、「人間を育てる」という営みの、本当の難しさなのだと思います。
※この記事における「小4」「10歳前後」は、明確な医学的・心理学的境界を意味するものではありません。また「狂う」という表現は精神疾患を指すものではなく、子どもの成長に伴って従来の親子関係のルールが合わなくなり、過干渉などの形で関係がぎくしゃくしてしまう状態を、あえて強調して表現したものです。子育てに熱心に取り組むこと自体を否定する意図はありません。
参考資料
こども家庭庁掲載「平成28年度先駆的ケア」学童期の発達に関する記述(p.32)
https://www.cfa.go.jp/sites/default/files/node/basic_page/field_ref_resources/f1b2c250-757b-4d70-80e3-594ea41b20bb/28e7690d/20230401_policies_shakaiteki-yougo_syakaiteki-youiku-suishin_34.pdf
文部科学省「家庭教育手帳 3.思春期」
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/09/15/1246193_4.pdf
こども家庭庁「家庭支援事業について」 https://www.cfa.go.jp/policies/katei_shien
岩﨑りほ・有本梓・成瀬昂・永田智子・村嶋幸代「母親役割/母親以外の自己の役割に満足することの重要性:子育て中の母親の不安軽減のために-母親への横断調査より-」産業医科大学雑誌、2017年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/juoeh/39/2/39_143/_article/-char/ja
内閣府男女共同参画局「令和5年版 男女共同参画白書 第1節 働き方や就業に関する意識の変遷、家事・育児等・働き方の現状と課題」
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r05/zentai/html/honpen/b1_s00_01.html

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