「兄弟なんだから、平等にかわいがるべきだ」
以前の私は、この考えを疑ったことがありませんでした。
私には二人の甥がいます。兄は幼い頃から相手への配慮を欠くような言動が目につく子でした。一方の弟は、人とのやり取りが自然で、素直にかわいいと思える子でした。
私の父と祖母、甥たちから見れば祖父と曾祖母にあたる二人は、あからさまに弟の方をかわいがっていました。祖母は弟に向かって「うちの子になりねー」と言っていたほどです。
私はそれが気になって仕方がありませんでした。子ども相手に、なぜそこまで露骨に差をつけるのか。大人なら兄弟を平等に扱うべきではないのか。そう考えた私は、できるだけ二人に同じように接していました。父や祖母よりも、自分の方がちゃんとした大人として振る舞っているつもりだったのです。
ところが数年がたった今、その自信は揺らいでいます。
父や祖母のやり方が正しかった、と単純に思うようになったわけではありません。むしろ今では、当時の大人たちが、私自身も含めて、兄の方に必要な関わりをうまく渡せていなかったのではないかと感じています。そして同時に、私が「二人を平等に扱うこと」を無条件に正しいと信じ込んでいたことも、ずいぶん単純だったのではないかと思い至りました。
ここに書くのは、二人の生活の一部を外から見ていた、一人の親戚としての視点です。兄の言動の背景に何があったのか、それが気質なのか、環境なのか、本人なりの事情があったのかは分かりません。その前提を踏まえた上で、当時のことを改めて考え直してみたいと思います。
親が言う「まだ子どもだから」の間に、子どもは何を学んでいたのか

兄の振る舞いについて、甥たちの親は「まだ子どもだから、大きくなれば分かるようになる」という見方をしていました。周囲の大人たちも、なかなか口を出せません。大ハラスメント時代ですからね。
本人に何か言えばその親を不快にさせるかもしれない、親戚付き合いに波風を立てたくない、自分がそこまで言うことでもない、といった遠慮があったからです。私自身もまた、その空気の中にいました。
そして年月がたちました。
兄が子どもの頃とまったく同じ言動を続けているわけではありません。しかし、他人との関わり方や立ち振る舞いに対して私が感じていた違和感は、薄れるどころか、次第にはっきりとした「不快さ」に変わっていきました。
幼稚園児や小学校低学年の頃なら、「まだかわいらしい子どもだから」と許せていた違和感も、中学生になるとそうはいきません。私には、違和感を超えて、「やばい大人が出す雰囲気」に近いものを醸し出すように見えてきたのです。
さらに、以前は素直でかわいいと感じていた弟の振る舞いにも、兄に似た傾向が見られるようになってきました。
もちろん、その理由をすべて兄の影響だと決めつけることはできません。年齢による変化かもしれませんし、友人や学校、家庭環境の影響もあるでしょう。それでも私は、「弟は兄から人との接し方を学んでいたのではないか」と考えました。
下の子にとって、上の子は日常的に接する身近な手本の一人です。子どもを教育するのは親だけではありません。兄もまた、弟にとっての手本になり得ます。
英国の大規模な縦断データを分析した2024年の研究では、きょうだい間における行動の関連が調べられています。それによると、問題行動に関しては、年長のきょうだいから年少のきょうだいへの影響が優勢であることが示されています。
もちろんこれは観察研究であり、弟が兄の行動をそのまま真似したと証明するものではありません。向社会的行動を含めれば、すべての影響が一方通行だったわけでもありません。それでも、上の子が下の子の発達に影響する重要な存在になり得ることは示されています。
そう考えると、親が言う「そのうち分かるようになる」という言葉が引っかかります。そのうち分かると言うなら、子どもは誰から、何を経験して分かるようになる予定だったのでしょうか。
大人が何も言わずに待っている間も、子どもの学びは続いています。大人が教えなかったとしても、兄は弟の前で日常的に、人との接し方を実演しています。「大人が何も教えない」という状態は、子どもが「何も学んでいない」ことを意味しないのです。
子どもは、兄の振る舞いだけでなく、大人の反応も見ている

弟が見ていたのは、兄の行動そのものだけではなかったはずです。兄が何かをしたときに、周囲の大人がどう反応するのかも見ていたでしょう。
2021年に発表された実験では、4歳と6歳の子どもを対象に、周囲の反応が子どもの行動選択に及ぼす影響が調べられました。周囲が非効率な多数派を肯定し、効率的な少数派を否定すると、子どもたちは非効率な多数派をより真似しました。一方、周囲が中立的な反応を示している場合には、効率的な少数派のやり方がより選ばれました。
ここで注目すべきなのは、子どもが必ずしも効率的な行動を選ぶわけではなく、周囲から承認されている行動を選ぶことがあるという点です。つまり子どもは、「誰が何をしているか」だけでなく、「それを周りの大人がどう評価しているか」まで見ている可能性があります。
この研究を甥たちの日常にそのまま当てはめることはできません。それでも、当時の自分の態度を振り返る材料にはなりました。
兄が相手に配慮のない言い方をしても、私は受け流していました。一方で、弟が気持ちのよいやり取りをしてくれても、兄と差がつかないように、同じくらいの淡々とした反応を返そうとしていました。差をつけないことこそが公平であり、中立だと信じていたからです。
しかし、異なる振る舞いに対して同じ反応を返し続ければ、子どもからは「どちらでも大きな違いはない」と受け取られていた可能性があります。
私は平等に接しているつもりで、実際には子どもの行動に対して何の有益な情報も返していなかったのかもしれません。
そしてもう一つ、今になって認めなければならないことがあります。私が二人に同じように接していたのは、純粋な公平さのためだけではありませんでした。兄に何か言えばその親との関係が気まずくなるかもしれない。何も言わずに二人に同じ笑顔を向けていれば、面倒は起きない。その上、「私は差別をしない良識ある大人だ」という気分でいられる。
私は面倒な関わりを避けながら、平等という看板で自分の立場も守っていたのだと思います。
きょうだい間の評価差が、競争を生む可能性

ここからは私の想像です。
兄も、弟の方が父や祖母からかわいがられていることを、多少なりとも感じていたのではないかと思います。
きょうだいは、親や周囲の大人から自分と相手がどう扱われているかを比較します。実際、きょうだい間の扱いの差は、きょうだいへの嫉妬と関連することが報告されています。
そうだとすれば、兄の側には「自分が弟のようになる」という方向だけでなく、「弟を自分の側へ引き寄せる」という方向の力も働き得ます。
たとえば、「お前の態度は子どもっぽい。大人はこうするものだから、俺を見ておけ」と弟に教える。本人に悪意があるとは限りません。むしろ年上の兄として、自分の方が物事を知っている、自分の方が大人だと考えていた可能性もあります。
しかし、その結果として弟が兄の振る舞いを取り入れれば、二人の差は小さくなります。
私はこれまで、「弟が兄を見て自然に真似した」という方向ばかりを考えていました。しかし、きょうだいが互いを比較する関係であるなら、兄の側にも、自分より評価されている弟との差を縮めようとする動機が生まれる可能性があります。
もちろん、実際に甥たちの間でそうしたことが起きていたのかは分かりません。ただ、家族の中で一方を「かわいい側」、もう一方を「かわいくない側」と固定することには、こうした競争を生む可能性まで考えておいた方がよいのではないかと思います。
えこひいきと平等の間にある、三つの反応

振り返ってみると、あの頃の大人たちが子どもたちに返していた反応は、大きく三つに分けられるように思います。
一つめは、行動そのものへの反応です。
気持ちのよいやり取りをされればうれしくなり、嫌な言い方をされれば嫌な顔をする。相手が接し方を変えれば、こちらの反応も変わるという、その場の行動に対する率直な反応です。
二つめは、人間そのものへの固定的な評価です。
「この子はかわいい子」「あの子はかわいくない子」と役割を固定し、本人が何をしても評価が動かない状態です。実際、きょうだい間で扱いに差があり、好意的に扱われない子どもでは、不安や抑うつ、攻撃性やルール違反などが多いという関連も報告されています。もちろん、一方向の因果関係を示した研究ではありません。
三つめは、均一で無反応に近い対応です。 誰がどのような行動をとっても、波風を立てないように同じように受け流す態度です。明らかに子どもおかしな行動をとっていたとしても、親が叱らなければ私もなにも言いませんでした。
一つめの反応には、子どもが自分の振る舞いを調整するための情報が含まれています。配慮ある行動をすれば歓迎され、人を不快にさせれば好ましくない反応が返る。誰がしたかではなく、何をしたかによって反応が変わるため、子どもにはやり直す余地があります。
しかし、二つめのように「かわいくない側」と役割を固定されてしまえば、兄はどう振る舞いを変えればいいのか分かりません。
そして三つめのように、何をしても同じ反応しか返ってこなければ、自分の行動を改める必要性そのものが伝わりません。
父や祖母の態度は、弟とのやり取りを楽しむ一つめの要素もありましたが、次第に弟を無条件にかわいがる二つめの固定化へと傾いていました。そして私は、三つめの安全な場所に逃げ込んでいたのです。
私が返せたはずだったもの
では、私はどう接するべきだったのでしょうか。
兄本人が内面で何を必要としていたのかを、外から断定することはできません。しかし少なくとも、当時の私が返せたはずなのは、えこひいきでも無難な平等でもなく、その場の行動に対する具体的な反応でした。
「その言い方をされると、私は嫌な気持ちになる」 「今の言い方なら分かりやすいよ」 「それは面白いね」 「そういうことをされると、話したくなくなってしまう」
こうした言葉は、子どもの人格や親の育て方そのものを評価するものではありません。あくまで、その場で私自身がどう感じたかを返す言葉です。親のしつけに口を出すのとは違う形で、私にも返せた反応だったと思います。当時恐れていた親との摩擦も、この形なら少し小さくできたかもしれません。
子どもの人格を否定するのではなく、その瞬間にとった具体的な行動に対して、自分の感情や受け止めを率直に返すこと。そして、相手の接し方が変われば、こちらも快く応じること。そうした、やり直しのきくフィードバックこそが渡せたはずのものでした。
子どもは、ただ年齢を重ねるだけで人間関係のルールを自動的に理解するわけではありません。誰かとのやり取りの中で、自分の行動が相手にどう受け取られたのかを知り、少しずつ調整していく部分があるはずです。
周りの大人が誰もそのフィードバックを返さなければ、兄が自分のやり方を見直すきっかけは少なくなります。そして弟は、その姿をすぐ近くで見続けることになります。
親以外の大人がいる意味は、親とは違う反応を返せること
以前、私は「子どもごと自主隔離する子育て」について書きました。そこで考えたのは、親が子どもを一番よく知っていることと、親の見方だけで十分であることは違うのではないか、という問題でした。
今回の話も、そこにつながっています。
親には、親にしか分からない子どもの姿があります。「以前に比べればずいぶん落ち着いた」「今日は疲れているから機嫌が悪いだけだ」といった文脈を汲み取れるのは、毎日一緒に生活している親だからこそです。
しかし、毎日一緒にいるからこそ、親自身の基準が家庭の中でずれていく可能性もあります。
たとえば、兄が幼い頃にかなり極端な振る舞いをしていて、成長とともにそれが多少落ち着いたとします。親からすれば、「昔に比べればずいぶん良くなった」と感じるでしょう。そして弟にも兄と似た振る舞いが見られたとしても、それが兄より弱ければ、「兄の同じ年齢の頃よりは全然まし」と判断してしまうかもしれません。
この基準のずれが怖いところです。
家庭の外にいる人から見れば、その弟の振る舞いも十分に違和感のあるものかもしれません。「昔よりまし」と「今、他人と自然に関われている」は別です。
親以外の身近な大人が子どもに関わる意味は、単に世話の手数を増やすことだけではないはずです。親とは異なる一人の人間として、親とは違う反応を返すこと。家庭の外で出会うであろう人たちの感覚を、少し早く届けること。それも大切な役割の一つではないでしょうか。
周囲の大人が何人いても、全員が親の機嫌を気にして同じ反応しか返さないなら、子どもの世界には外の感覚が入ってきません。家庭内の基準が世間とズレていないかを外部の視点から確かめられる関係があるかどうかが、子どもの成長にとって大切なのではないかと思います。
私が守ろうとしていた「平等」は何だったのか
今でも、祖母の「うちの子になりねー」という言葉が、適切な関わり方だったとは思いません。それを間近で聞いていた兄にどう届いていたのか、私には分からないからです。
しかし以前の私は、その言葉を見て「子どもを差別する大人は未熟だ」と単純に考えていました。今の私には、もう少し複雑に見えます。父や祖母は、弟との心地よいやり取りに対して、人間としてごく自然な反応を返していた部分もありました。そしてそっちの方が良かったのかもしれない。
私はそうした生身の反応を消し去り、二人にまったく同じ態度をとることこそが正義だと信じ込んでいました。
しかし、子どもを大切にするということは、何をしても周囲から同じ反応が返るように世界を調整してあげることではありません。また、特定の子に否定的な役割を貼り付けて固定することでもありません。
本当に大切なのは、自分の行動によって相手の反応が変わるという現実を知ること。それと同時に、失敗したとしても行動を改めれば、また関係を作り直せるという安心感を渡すことです。
父や祖母のえこひいきが正しかったとは、今でも思いません。しかし、当時の私が考えていたほど単純に間違っていたとも思わなくなりました。
子どもにとって本当に必要なのは、当たり障りのない平等な笑顔なのか。それとも、「あなたの今の行動を、私はこう受け止めた」と真っ直ぐに返してくれる大人の存在なのか。
私は長い間、その二つを取り違えていたのだと思います。
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参考資料
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