母親の教育が「洗脳」に変わるとき|子どもの可能性を広げる教育、奪う教育

明るい場所で子どもを励ます母親と、暗い場所で指示されうつむく子どもを対比し、教育と洗脳の違いを表したイラスト 教育・子育て
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(以下に登場する親子の会話は、説明のための架空のものです)

中学3年の夏、夕飯のあとで子どもが言いました。

「B高校もいいかなって。部活の先輩が、めちゃくちゃ楽しいって」

母親は箸を置き、少し考えてから答えます。

「先輩がそう言ったから? 先輩の話だけで決めるのは早いよ。もうちょっと自分で調べてみたら」

満点の返事です。高校は3年間通う場所で、先輩の「楽しい」は先輩の感想にすぎません。私が親でも、たぶん同じことを言います。

1か月後、子どもは学校説明会のパンフレットを食卓に広げていました。

「説明会、行ってきた。授業のやり方が面白かったし、通学も1時間かからない。部活のことだけじゃないよ」

母親はパンフレットをめくり、しばらく黙ってから言いました。

「……でも、やっぱり先輩の影響が大きいんじゃないかな。あなたは本当は、もっと落ち着いた環境が合う子だと思うのよ」

言われたとおりに調べた。説明会に足を運んだ。理由も増やした。母親が出した宿題を、子どもはきちんとやって提出したわけです。それでも評価は、提出する前と同じ「先輩の影響」のままでした。

一つだけ、聞いてみたいのです。

この子は、あと何を説明すればよかったのでしょうか。

ここで悪い母親を見つけて終わりにしたいわけではありません。

「あなたは本当は、こういう子」。この言葉には、愛情もあれば、長年の経験からくる自信もある。ときには不安や思い込みも混ざっているでしょう。厄介なのは、それらが全部まとめて「この子のことはよく分かっている」という確信になってしまうことです。

この記事で考えたいのは、子どもを理解しようとする親の思いが、なぜときとして、子ども自身の説明をはね返す壁になってしまうのか、ということです。

「一番分かっている」と「私にだけしか分からない」は、似て非なるもの

多彩な進路へ向かう子どもを応援する母親と、頭の中の幼い子ども像をガラス玉に閉じ込める母親を対比したイラスト

長く一緒に暮らしていれば、親の中には「この子はこういう子」という像ができあがります。夜泣きの理由を探り、好き嫌いを覚え、友達とケンカした日の顔つきを見分けてきた。その積み重ねでできた像は、子育てに欠かせない道具です。像がなければ、親は毎朝、子どもを初対面の他人として扱うことになります。

問題は、その像が何度も当たってきたことです。

何年も当たり続けた予想は、いつの間にか「予想」ではなく「事実」の顔をし始めます。そして、目の前の子どもが像と違うことを言ったとき、親は二つのうちどちらかを選ぶことになります。像を書き直すか、子どもの言葉のほうを「間違い」として処理するか。

親の思いは、ときにこう変わっていきます。

「この子を一番理解しているのは私だ」

それが、いつの間にか、

「この子を理解できるのは私だけだ」

になってしまう。

言葉の違いはわずかですが、意味はまったく違います。

「一番」は順位です。二番目、三番目に理解している人がいることを前提にしています。先生もいれば、友達もいれば、子ども本人もいる。

「だけ」は独占です。ほかの理解者が座る席はありません。

そして困ったことに、「だけ」の世界では、子ども本人までもが「ほかの理解者」の側に数えられてしまうことがあります。

ここで、当たり前すぎて忘れられがちなことを確認しておきます。

子どもを愛していることは、子どもを正しく理解していることの証明にはなりません。

愛情は本物でも、像は古くなります。15歳の子どもを、12歳の頃の理解で見続けてしまうこともあるでしょう。それは愛情が足りないからとは限りません。子どもは、親が思っている以上に変わっているかもしれないのです。

自分の家の匂いは、自分では分からない

友達の話を聞く子どもと、家庭で母親の助言を受ける子どもを並べ、外からの影響と日常に溶け込む影響を描いたイラスト

冒頭の会話に、もう一つ仮定を加えてみます。

もし母親がA高校を勧めていて、子どもが「いろいろ考えたけど、A高校にする。お母さんが言ってたとおり、通学も楽だし」と答えていたら、母親はどう反応したでしょうか。

「自分でちゃんと考えられたね」と喜ぶかもしれません。

先輩の話を聞いて出した答えは「影響されている」。母親の話を聞いて出した答えは「自分で考えた」。どちらも誰かの話を聞いて出した答えなのに、貼られるラベルが違います。

公平のために言うと、母親がこう区別するのには理由があります。母親は、自分の助言の意図を知っています。一方、先輩の「楽しいよ」の動機は分かりません。部員集めかもしれないし、ただの思いつきかもしれない。動機の分かっている助言を、分からない助言より信用するのは、それなりに筋が通っています。

ただ、誰かの影響を受けたことと、自分で考えたことは矛盾しません。先輩の話をきっかけに興味を持ち、自分で調べ、納得して選んだのなら、それも子ども自身の判断です。もちろん、友達から不当な圧力を受けている場合は別です。大切なのは、誰から影響を受けたかだけでなく、その中身と、子ども自身がどう考えたかでしょう。

ここからは私の考えですが、そのもっともらしい理由こそが、ときに落とし穴になるのです。

自分の家の匂いは、自分では分かりません。毎日嗅いでいるからです。

親の影響もこれに似ています。毎日、しかも愛情とセットで届くので、親自身には「影響」として感じられにくいのかもしれません。先輩の言葉は外から来た匂いなのですぐに気づくのに、自分の言葉は空気のようなもので、子どもの中に入った途端に「この子の本心」に見えてしまう。

では、このラベルの違いを子どもの側から見ると、どうなるでしょうか。

「自分で考えたね」と褒められるのは、親と同じ答えにたどり着いたとき。親と違う答えを出すと「流されている」と言われる。こうしたやり取りが繰り返されれば、子どもはずいぶん皮肉なことを学びかねません。

自分で考えていると認めてもらうには、親と同じ答えを出すしかない。

「しっかりした子」と認められるいちばんの近道が、親に同意すること。そんな家では、自分の頭で考えた答えほど、口にしにくくなってしまうかもしれません。

私は、ここに教育が持つ怖さの一つがあると思っています。

誰よりも信じているつもりで、今の言葉だけを信じていない

学校の資料を手に今の希望を伝える子どもと、頭の中の別の子ども像を思い浮かべながら考え込む母親を描いたイラスト

冒頭の二つ目の会話に戻ります。

一度目に母親が疑ったのは、先輩でした。これは筋が通っています。

では、二度目に疑ったのは誰でしょうか。先輩はもうその場にいません。目の前にいるのは、説明会に行き、パンフレットを持ち帰り、最初よりも理由を足して説明した子ども本人です。

母親が「やっぱり影響でしょう」と言ったとき、退けられたのは、先輩の意見だけではありません。子どもの説明も、いっしょにです。

それでも、この母親には子どもを疑っている自覚がないかもしれません。「私はこの子を信じている」と即答するでしょうし、それは嘘ではないのでしょう。

母親が信じているのは、「本当のこの子」です。長い時間をかけて知った、落ち着いた環境が合うあの子。信じていないのは、いまパンフレットを広げて話している、この子の言葉のほうです。

子どもを誰よりも信じているつもりで、子どもが今語っている言葉だけを信じていない。

親子のすれ違いの中でも、これはかなり見えにくい部類に入ります。叱ってもいない。怒鳴ってもいない。禁止もしていない。ただ、子どもの説明が、親の理解を少しも動かさないだけです。

ここで、自分の家で確かめられる問いを一つ置いておきます。

子どもが何を言ったら、私は「この子は私と違う考えを持っている」と認めるだろうか。

言葉で条件を答えるのは簡単です。難しいのは、子どもが実際にその条件を満たしたとき、自分の理解を見直す余地を持てるかどうかです。

「もっと調べてから決めなさい」と言っていたのに、子どもが調べてきたら、今度は「それでもまだ足りない」と感じる。ならば、何が足りないのでしょうか。新たに心配すべき理由が見つかったのか。それとも、最初から結論だけが決まっていたのでしょうか。

もちろん、説明を聞いても親の判断が変わらないことはあります。反対する理由が残っているなら、その理由を伝えればいいのです。

しかし、どんな理由を聞かされても「それは誰かの影響」「一時の気の迷い」「本当のあの子じゃない」で説明できてしまうなら、その像は、子どもの言葉では書き換えられない仕組みになっています。

教育と「洗脳」は、どこで分かれるのか?

自由な選択肢を広げる親子の会話と、母親に強く指示され選択肢が狭まる子どもの姿を左右に分けて示したイラスト

煽るようなタイトルをつけておいて何ですが、冒頭の母親が子どもを洗脳しているかどうかは、この二つの会話だけでは判断できません。進路で揉めることは、多くの家庭で起こり得ます。親が一度反対しただけで洗脳と呼ぶなら、日本中の台所が洗脳施設になってしまいます。

私は、子どもの将来の可能性を広げるのが教育で、狭めるのが洗脳だと考えています。この記事で「洗脳」という言葉を使うのは、医学や心理学の診断名としてではありません。その境目を考えるための、私自身の批評的な比喩としてです。

子どもの選択肢を制限することが、すべて洗脳になるわけではありません。危険から遠ざけたり、年齢に応じたルールを設けたりすることは、子どもを守るために必要な場合があります。

ここで問題にしたいのは、例えば次のような関わり方です。

  • 親の中の「本当のこの子」だけが正解として扱われ、子ども自身の説明が軽視され続ける。
  • 子どもが新しい理由を示しても、親の理解が見直される余地がない。
  • 親と違う希望を持つたびに、罪悪感を抱かされたり、愛情や承認を失うように感じさせられたりする。
  • そうした関係の中で、子どもが自分で考え、選び、選び直す機会が狭められていく。

こうした関わりが重なり、続いていくとき、私はそれを「洗脳的」と呼びたいのです。

これは洗脳を判定するためのチェックリストではありません。また、一度なら何をしても問題ないわけでもありません。一度の深刻な脅しや威圧であっても、子どもを傷つけることはあります。

親の価値観に従うことが、子どもにとって最も安全な選択になってしまうとしたら。それを単なる教育方針の違いとして片付けてよいのでしょうか。

心理学には、この話と隣り合う研究があります。

発達心理学者のブライアン・K・バーバーは、門限やルールのように子どもの行動を管理する「行動的統制」と、罪悪感を利用したり、愛情を引っ込めたりして、子どもの感情や考えに働きかける「心理的統制」とを区別しました。そして、心理的統制と子どもの抑うつなどとの関連を報告しています。

もう一つ興味深いのは、褒めることにも関係する研究です。ロスらがイスラエルの中学3年生を対象に行った調査では、親の期待に応えたときに好意や承認が増す「条件つきの肯定的な関わり」が、「そうしなければならない」という内面的な強制感や、否定的な感情を抑え込む傾向と関連していました。

叱られることだけが、子どもにとって圧力になるわけではありません。親の期待に応えたときだけ愛情や承認が強まるなら、褒め言葉さえも、子どもを縛る関わりの一部になり得るのです。

ただし、これらの研究は「親の教育が洗脳に変わる」ことを証明したものではありません。ロスらの調査は一時点のデータに基づいており、因果関係までは分からないと著者ら自身が述べています。褒めること自体が悪いという話でもありません。

問題は褒め言葉そのものより、それが何に対して与えられているかなのだと思います。

「本当は我慢してない?」と聞きたくなった人へ

ここまで読んで、「うちの子も、本当は何か飲み込んでいるのでは」と不安になった方もいるかもしれません。今夜にでも聞いてみようか、と。

「ねえ、本当はお母さんに言えてないこと、ない?」

聞くこと自体は悪くありません。問題は、子どもが「別にないよ」と答えたあとです。

「そんなはずない。遠慮しないで、本当のことを言って」

子どもの答えを受け取らずに、これを言い始めたら、冒頭の母親のすぐ隣に立っています。

「あなたは本当はそういう子じゃない」と言う親と、「あなたは本当は我慢しているはず」と言う親。正反対に見えますが、前提は同じです。子どもが口にした言葉の奥に「本当のこの子」がいて、その本当を知っているのは親のほうだ、という前提です。

善意から出た反省さえ、同じレールの上を走ることがあります。

子どもには、親に話さない自由もあります。思春期になれば、自分だけで考えたいことや、まだ言葉にならない気持ちが増えていくのは自然なことです。子どもの沈黙を「同意」と決めつけないのと同じくらい、「抑圧」とも決めつけないことが大切です。

ついでに言えば、この記事にも判定はさせないでください。

読んで「私のことだ」と青ざめた人も、「うちは関係ない」と思った人も、答えはこの記事の中ではなく、子どもとの次の会話の中にしかありません。

ただし、いじめや自傷、虐待など、深刻な危険が疑われる場合は話が別です。一度の「何もない」で確認を終えず、状況に応じて学校や専門機関と連携して安全を確かめてください。それは、子どもの言葉を尊重することと矛盾しません。

反対していい。ただし、希望があることは認める

希望する学校について話す子どもと、通学時間や学費などの条件を考えながら笑顔で耳を傾ける母親を描いたイラスト

では、親は子どもの希望に何も言えないのでしょうか。そんなことはありません。家計も通学の安全も、親が考えるべきことです。

冒頭の母親が、二度目にこう言っていたらどうだったでしょうか。

「B高校に行きたいのは、よく分かった。説明会まで行ったんだもんね。ただ、お母さんは学費と、部活と勉強の両立が気になってる。そこを一緒に考えてくれない?」

結論はまだ出ていません。B高校に決まるかもしれないし、決まらないかもしれない。それでも、この会話ではっきりしたことが一つあります。子どもがB高校に行きたいという希望を、母親が認めたことです。

希望を認めることと、希望を許可することは別物です。

親は反対できます。ただ、反対するなら、「あなたの希望は分かった。そのうえで、私はこう考える」と、子どもの希望を相手にして反対すればいいのです。「あなたは本当はそれを望んでいない」と、希望そのものをなかったことにする必要はありません。

前者は親子の議論です。後者は、議論の相手を消してしまうやり方です。

なお、ここまで母親を主語にしてきましたが、同じことは父親にも、祖父母にも、教師にも起こり得ます。子どもを長く見てきた大人ほど、「この子はこういう子だ」という確信を持ちやすいからです。

「この子」を書き直すのは誰か

以前の子ども像を描き直す母親と、リュックを背負って明るい未来へ進む子どもを並べ、成長への理解を表したイラスト

教育が広げるべき可能性というと、学校や職業の選択肢を思い浮かべるかもしれません。でも、もう一つあります。

親の知っている「この子」とは違う人間になる可能性です。

ゲームばかりしていると思っていた子が、ゲームを作る学校に行きたいと言い出す。親が苦手な音楽について、親よりずっと詳しく語り始める。落ち着いた環境が合うはずの子が、騒がしい部活に飛び込もうとする。

そのたびに、親の像は少しずつ外れていきます。外れるのは、親に見る目がなかったからではありません。子どもが、親の想像より先へ進んだからです。

だから最後に、もう一度だけ同じ問いを置いておきます。

この子が何を言ったら、私は自分の知っている「この子」を書き直すだろうか。

子どもの可能性を広げるとは、母親の知っている「この子」の外へ子どもが出ていくことを、許し続けることなのかもしれません。


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参考文献

  • Barber, B. K.(1996)Parental Psychological Control: Revisiting a Neglected Construct. Child Development, 67(6), 3296–3319.
  • Roth, G., Assor, A., Niemiec, C. P., Ryan, R. M., & Deci, E. L.(2009)The Emotional and Academic Consequences of Parental Conditional Regard: Comparing Conditional Positive Regard, Conditional Negative Regard, and Autonomy Support as Parenting Practices. Developmental Psychology, 45(4), 1119–1142.

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